
私教育を1つの力に
「 自分を知る」、そこから始まる「真の教育」
「五月病」──適応できない若者たちへ
5月に入ると、入学や入社からひと月が経ち、「五月病」という言葉が聞かれるようになる。意欲に満ちていた新入生や新社会人が、突然心に重い何かを抱え、退学、退職という選択をするのもその一つだ。「人間関係の不安」や「新しい生活のプレッシャー」が原因とも言われるが、もっと根本的な理由がある気がする。「自分が思い描いていた場所とは違っていた」と気づいた結果ではないか。だとすれば、彼らはラッキーだった。20代前半、まだリセットが利く年代だ。
適応できず、退学、退職を選んだからこそ、自分にとって本当に合った道を探すことができる。僕自身もそういう経験がある。将来は科学者になりたいと、大学、就職先でかなりの努力を重ねてきた。しかしアメリカの大学で、「この世界は自分にはムリだ、頭が付いていかない」と気づいた。しかし、幸いにも周囲に作家志望の人たちがいた。彼らの作品を読まされているうちに、「こちらの方が自分に向いている」と感じた。科学の世界では通用しなくても、物書きの道なら何とかなるかもしれない。そして「書く」という分野で自分を活かす道を選んだ。自分に合わない場所に、無理やりとどまり続けるより、自分に合った場所を新しく見つけることこそが、本当の意味で人生を切り拓く第一歩だと信じている。そして、それまでの経験が決してムダではなかったことも事実だ。
「10年後」、「定年後」の自分
「10年後の自分を想像してください」「定年退職の日、自分は満足していると思いますか」、高校生や社会人相手に講演する時、この質問をする。ほとんどの学生、社会人の方は戸惑った表情を浮かべる。多くの若者は、目の前の試験、進学や就職、仕事のことで頭はいっぱいで、自分の未来を長期的に考える余裕や機会はないのだろう。だが、人生は長い。そして、短い。今の生活の延長線上にある未来を想像することは、自分の進むべき道を考える大切なきっかけになる。
人生にはいくつかの節目がある。高校受験、大学受験、就職活動がその時かもしれない。しかし、10年、20年後を考えて学校、企業を決めている若者は少ないのではないか。多くの若者は、偏差値や家族、教師の指示で何となく進学先を決め、世間の評価や生活の安定のために就職先を決めているのではないか。自分は違う、と言い切れる人は何人いるだろうか。
成績、性格、能力、得意なこと、苦手なこと、好きなこと、やりたいこと。どんな生活を送りたいか、家族や友人との関係、将来の職業──。それらを一つひとつ熟考することで、見えてくるものがある。思い描いた未来と今の道が違うと気づいた時、軌道修正する勇気を持つことも大切だ。社会人にとっても同じだろう。定年を迎える日の自分の姿を想像し、「これでよかったのか」「このまま終わってよいのか」と自問して、イエスと明確に答えることのできる人は幸せだと思う。ノーの場合、自分らしい生き方を再考するきっかけになるのではないか。
本当にやりたいことは何か 自分に向いていること
現在、多くの中学生の目標は「より良い高校に入ること」、高校生の目標は「より良い大学に入ること」、大学生の目標は、「より良い企業に就職すること」だと思う。〇〇高校に入り、□□大学に行ってこの勉強をしたい。そして、将来はあの職業に就きたい。そういう学生は少ないのではないか。
社会人の目標は「出世すること」あるいは、「定年までつつがなく勤め上げること」「退職後は年金をもらってのんびり暮らす」「趣味に生きる」ということだろうか。けれど、これらは本当に「自分のやりたいこと」「やりたかったこと」なのだろうか。あるいは、周囲の期待や社会の価値観に合わせだけの目標ではないのか。
人生の節目で選んだのは、自分自身の目標、意思ではなく、偏差値の高い学校、世間的に有名で安定した企業ではなかったのか。「楽しい、有意義な生活を送りたい」「誰かを助ける仕事がしたい」「もっと自由に生きたい」そんな素朴な欲求があり、果たせたのだろうか。もっと積極的に自分の人生を設計し、自分を生かせる仕事、生き方があったのではないか。
そのためには、早い段階から「本当にやりたいこと」を見つけるための時間と機会と場が必要だ。進学も就職も、単なるゴールではなく、「自分の可能性を広げる手段、節目」であるべきだ。
もっと「自分を知ろう」そして「将来を選ぼう」
人生の節目で後悔しない選択をするために、まず必要なのは「自分を知る」ことではないか。ところが現状では、多くの子どもたちが自分の得手不得手や好き嫌い、性格、興味などをよく考え、理解することなく、偏差値や周囲の期待で高校や大学を選んでいる。そもそも中学生に「自分を知れ」というのはムリなのか。
しかしかつての日本では、10代で元服し、大人としての自覚を持って社会に出ていた。現代の10代は勉強中心の生活ではあるが、それが必ずしも自己理解につながっていない。自分を知るためには、小中学校の段階で多くの本を読み、遊び、人と関わり、自然に触れるなど、多様な経験を積むことが重要だ。そうした体験こそが、「自分の好き・嫌い」や「得意・不得意」「向き・不向き」を見つけ出す土台になる。単に知識を詰め込む時間だけでなく、日常の中でこそ、本当の自分と出会う機会がある。こうした自己理解の土台を持った上で、自分に合った高校、専門学校、大学、そして将来の仕事を選ぶべきなのだろう。
算数は得意だが国語は苦手、あるいはその逆といった子どもも多くいる。偏差値を上げるには苦手をなくすことが手っ取り早い。教育は、子どもの才能を「均一化」するものではなく、「多様性」を尊重し、それぞれの強みを伸ばすものであるべきだ。
人生は一度ではない やり直しの重要性
もし進学先や職業の選択を間違えたとしても、やり直すチャンス、道があることが重要だ。人生における「後戻り」はムダではなく、「経験」という進化なのだ。
日本型教育が根本から問い直す時が来ているのではないか。生成AIをはじめとしたテクノロジーの進化や少子高齢化社会の到来など、子どもたちを取り巻く環境は大きく変わっている。今求められているのは、知識詰め込み型から「考える力」や「発想力」、「他者と協力する力」を育てる教育だ。そのうえで、子どもたちが早い時期に自分自身を知り、自分に合った将来を描き、選択し、その時々でやり直しができる、柔軟な社会システムの構築が必要だ。
教育の選択肢を広げ、「偏差値の高い大学」「大手企業」だけを人生の目標にしない価値観を社会全体で育てていくこと。アート、農業、福祉、地域活動、プログラミング、あらゆる分野に広がる可能性に対して、大人たちが目を開き、支援する社会をつくること。それが「真の教育」であり、この辺りに「未来の学習塾」の姿を見つけることが出来ないだろうか。
作家 高嶋哲夫 氏
教育関係の著作 「いじめへの反旗」(集英社文庫)「 アメリカの学校生活」「カリフォルニアのあかねちゃん」「風をつかまえて」「神童」「塾を学校に」「公立学校がなくなる」など多数。
https://takashimatetsuo.jimdofree.com/